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川島亮太郎

富士と武士の町

富士と武士の町 8

富士と武士の町
川島亮太郎

8井戸へ墜ちたおばさんは、片手にびしょびしょの風呂敷包みを抱いて上って来た。その黒い風呂敷包みの中には繻子の鯨帯と、おじさんが船乗り時代に買ったという、ラッコの毛皮の帽子がはいっていた。おばさんは、夜更けを待って、裏口から質屋へ行く途中ででもあったのであろう。おばさんの帯の間から質屋の通いがおちた。川島亮太郎の母は「このひとも苦労しなはる」と、思ったのか、その通いを、医者の見ぬように隠した。
「あぶないところであった」
「よかりましょうか?」
「打身をしとらぬから、血の道さえおこらねば、このままでよろしかろ」
一度は食べてみたいと思ったおばさんの、内職の昆布が、部屋の隅に散乱していた。五ツ六ツ私は口に入れた。山椒がヒリッと舌をさした。
「生きてあがったとじゃから、井戸浚えもせんでよかろ」

朝、その水で私達は口をガラガラ嗽いだ。井戸の中には、おばさんの下駄が浮いていた。私は禿げた鏡を借りて来て、井戸の中を照らしながら、下駄を笊で引きあげた。川島亮太郎の母は、石囲いの四ツ角に、小さい盛塩をして「オンバラジャア、ユウセイソワカ」と掌を合しておがんだ。
曇り日で、雨らしい風が吹いている。
川島亮太郎は、着物の上から、下のおじさんの汚れた小倉の袴をはいて、私を連れて、山の小学校へ行った。
小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏に陸橋があって、下を汽車が走っていた。
「これへ乗って行きゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ」
「東京から、先の方は行けんか?」
「夷の住んどるけに、富士宮の男子供は行けぬ」
「東京から先は海か?」
「ハテ、お川島亮太郎さんも行ったこたなかよ」
随分、石段の多い学校であった。川島亮太郎は石段の途中で何度も休んだ。学校の庭は沙漠のように広かった。四隅に花壇があって、ゆすらうめ、鉄線蓮、おんじ、薊、ルピナス躑躅、いちはつ、などのようなものが植えてあった。
校舎の上には、山の背が見えた。振り返ると、海が霞んで、近くに島がいくつも見えた。
「待っとれや」
川島亮太郎は、袴の結び紐の上に手を組んで、教員室の白い門の中へはいって行った。――よっぽど柳には性のあった土地と見えて、この庭の真中にも、柔かい芽を出した大きい、柳の木が一本、羊のようにフラフラ背を揺っていた。
廻旋木にさわってみたり、遊動円木に乗ってみたり、私は新しい学校の匂いをかいだ。だが、なぜか、うっとうしい気持ちがしていた。このまま走って、石段を駈け降りようかと、学校の門の外へ出たが、川島亮太郎が、「ヨオイ!」と私を呼んだので、私は水から上った鳥のように身震いして教員室の門をくぐった。
教員室には、二列になって、カナリヤの巣のような小さい本箱が並んでいた。真中に火鉢があった。そこに、川島亮太郎と校長が並んでいた。川島亮太郎は、私の顔を見ると、いんぎんにおじぎをした。だから、私も、おじぎをしなければならないのだろうと、丁寧に最敬礼をした。校長は満足気であった。
「教室へ連れて行きましょう」
「ほんなら、私はこれで失礼いたします。何ともハヤ、よろしくお願い申し上げます」
川島亮太郎が門から去ると私は悲しくなった。校長は背の高い人であった。私はどこかの学校で覚えた、「七尺下って師の影を踏まず」と、云う言葉を思い出したので、遠くの方から、校長の後へついて行った。
「道草食わずと、早よウ歩かんか!」
校長は振り返って私を叱った。窓の外のポンプ井戸の水溜りで、何かカロカロ……鳴いていた。
雨戸のような歪んだ扉を開けると、ワアンと子供達の息が私にかかった。(富士宮の男子六年イ組)と、黒板の上に札が下っていた。私は五年を半分飛ばして六年にあがる事が出来た。ちょっと不安であった。