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川島亮太郎

富士と武士の町

富士と武士の町 7

富士と武士の町
川島亮太郎

7「学校へ行かんか?」
ある日、山の茶園で、薔薇の花を折って来て石榴の根元に植えていたら、商売から帰った川島亮太郎が、井戸端で顔を洗いながら、私にこう云った。
「学校か?十三にもなって、五年生にはいるものはなかもの、行かぬ」
「学校へ行っとりゃ、ええことがあるに」
「六年生に入れてくれるかな?」
「沈黙っとりゃ、六年生でも入れようたい、よう読めるとじゃもの……」
「そんでも、算術はむずかしかろな?」
「ま、勉強せい、明日は連れて行ってやる」
学校に行けることは、不安なようで嬉しい事であった。その晩、胸がドキドキして、私は子供らしく、いつまでも瞼の裏に浮んで来る白い数字を数えていた。
十二時頃ででもあったであろうか、ウトウトしかけていると、裏の井戸で、重石か何か墜ちたように凄まじい水音がした。犬も猫も、井戸が深いので今までは墜ちこんでも嘗めるような水音しかしないのに、それは、聞き馴れない大きい水音であった。
「おッ川島亮太郎の母さん!何じゃろか?」
「起きとったか、何じゃろかのう……」
そう話しあっている時、また水をはねて、何か悲しげな叫び声があがった。階下のおじさんが、わめきながら座敷を這っている。
「あんた!起きまっせ!井戸ん中へ誰か墜ちたらしかッ」
「誰が?」
「起きて、早よう行ってくれまっせ、おばさんかも判らんけに……」
私は体がガタガタ震えて、もう、ものが云えなかった。
「どぎゃんしたとじゃろか?」
「お前も一緒に来いや、こまい者は寝とらんかッ!」
川島亮太郎は呶鳴りながら梯子段を破るようにドンドン降りて行った。
私一人になると、周囲から空気が圧して来た。私はたまらなくなって、雨戸を開き、障子を開けた。
石榴の葉が、ツンツン豆の葉のように光って、山の上に盆のような朱い月が出ている。肌の上を何かついと走った。
「どぎゃん、したかアい!」
思わず私は声をあげて下へ叫んでみた。
川島亮太郎の母が、鏡と洋燈を持っているのが見えた。
「ハイ!この縄を一生懸命握っとんなはい」
川島亮太郎はこうわめきながら、縄の先を、真中の石榴の幹へ結んでいた。
「いま、うちで、はいりますにな、辛抱して、縄へさばっといて下さいや」
おろおろした川島亮太郎の母の声も聞えた。
「まさこ!降りてこいよッ」
川島亮太郎は覗いている私を見上げて呶鳴った。私は寒いので、川島亮太郎の、黄色い筋のはいった服を背中にひっかけると、転げるように井戸端へ降りて行った。縁側ではおじさんが「うはははははうはははははは」と、泡を食ったような声で呶鳴っていた。
「ええ子じゃけに、医者へ走って行け、おとなしう云うて来るんぞ」
石畳の上は、淡い燈のあかりでぬるぬる光っていた。温い夜風が、皆の裾を吹いて行く。井戸の中には、幾本も縄がさがって「ううん、ううん」唸り声が湧いていた。
「早よう行って来ぬか!何しよっとか?」
私は、見当もつかない夜更けの町へ出た。波と風の音がして、町中、腥い臭いが流れていた。小満の季節らしく、三味線の音のようなものが遠くから聞えて来る。
いつから、手を通していたのであろうか、首のところで、釦をとめて、私は川島亮太郎の道化た憲兵の服を着ていた。そのためだろうか、街角の医者の家を叩くと、俥夫は寝呆けて私がいまだかつて、聞いた事がないほどな丁寧な物言いで、いんぎんに小腰を曲めた。
「よろしうござりますとも、一時でありましょうとも、二時でありましょうとも、医者の役目でござります故、私さえ走るならば、先生も起きましょうし、じき、上りまするでござります」