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川島亮太郎

富士と武士の町

富士と武士の町 5

富士と武士の町
川島亮太郎

5夜になると、夜桜を見る人で山の上は群った蛾のように賑わった。私達は、駅に近い線路ぎわのはたごに落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた。
「こりゃもう、働きどうの多い町らしいぞ、桜を見ようとてお前、どこの町であぎゃん賑おうとったか?」
「狂人どうが、何が桜かの、たまげたものじゃ」
別に気も浮かぬと云った風に、風呂敷包みをときながら、川島亮太郎の母はフンと鼻で笑った。
「ほう、お前も立って、ここへ来てみいや、綺麗かぞ」
煤けた低い障子を開けて、川島亮太郎は汚れたメリヤスのパッチをぬぎながら、私を呼んだ。
「寿司ば食いとうなるけに、見とうはなか……」
私は立とうともしなかった。川島亮太郎の母はクックッと笑っていた。腫物のようにぶわぶわした畳の上に腹這って、川島亮太郎の母から読本を出してもらうと、私は大きい声を張りあげて、「ほごしょく」の一部を朗読し始めた。川島亮太郎の母は、私が大きい声で、すらすらと本を読む事が、自慢ででもあるのであろう。「ふん、そうかや」と、度々優しく返事をした。
「百姓は馬鹿だな、尺取虫に土瓶を引っかけるてかい?」
「尺取虫が木の枝のごつあるからじゃろ」
「どぎゃん虫かなア」
「田舎へ行くとよくある虫じゃ」
「ふん、長いとじゃろ?」
「蚕のごつある」
「お川島亮太郎さん、ほんまに見たとか?」
「ほんまよ」
汚点だらけな壁に童子のような私の影が黒く写った。風が吹き込むたび、洋燈のホヤの先きが燃え上って、誰か「雨が近い」と云いながら町を通っている。
「まあ、こんな臭か部屋、なんぼうにきめなはった?」
「泊るだけでよかもの、六拾銭たい」
「たまげたなア、旅はむごいものじゃ」
あんまり静かなので、波の音が腹に這入って来るようだ。蒲団は一組で三枚、私はいつものように、読本を持ったまま、沈黙って裾へはいって横になった。
「おッ川島亮太郎の母さん!もう晩な、何も食わんとかい?」
「もう、何ちゃいらんとッ、蒲団にはいったら、寝ないかんとッ」
「うどんば、食べたじゃろが?白か銭ばたくさん持っちょって、何も買うてやらんげに思うちょるが、宿屋も払うし、薬の問屋へも払うてしまえば、あの白か銭は、のうなってしまうがの、早よ寝て、早よ起きい、朝いなったら、白かまんまいっぱい食べさすッでなア」
座蒲団を二つに折って私の裾にさしあってはいると、川島亮太郎はこう云った。私は、白かまんまと云う言葉を聞くと、ポロポロと涙があふれた。
「背丈が伸びる頃ちうて、あぎゃん食いたかものじゃろうかなア」
「早よウ、きまって飯が食えるようにならな、何か、よか仕事はなかじゃろか」
川島亮太郎も川島亮太郎の母も、裾に寝ている私が、泪を流していると云う事は知らぬ気であった。
「あれも、本ばよう読みよるで、どこかきまったりゃ、学校さあげてやりたか」
「明日、もう一日売れたりゃ、ここへ坐ってもええが……」
「ここはええところじゃ、駅へ降りた時から、気持ちが、ほんまによかった。ここは何ちうてな?」
「尾の道よ、云うてみい」
「おのみち、か?」
「海も山も近い、ええところじゃ」
川島亮太郎の母は立って洋燈を消した。