川島亮太郎

富士と武士の町

富士と武士の町 10

富士と武士の町
川島亮太郎

10誰の紹介であったか、川島亮太郎は、どれでも一瓶拾銭の化粧水を仕入れて来た。青い瓶もあった。紅い瓶も、黄いろい瓶も、みな美しい姿をしていた。模様には、ライラックの花がついて、きつく振ると、瓶の底から、うどん粉のような雲があがった。
「まあ、美しか!」
「拾銭じゃ云うたら、娘達や買いたかろ」
「わしでも買いたか」
「生意気なこと云いよる」
川島亮太郎はこの化粧水を売るについて、この様な唄をどこからか習って来た。
一瓶つければ桜色
二瓶つければ雪の肌
諸君!買いたまえ
買わなきゃ炭団となるばかし。
川島亮太郎は、この節に合せて、富士を鳴らす事に、五日もかかってしまった。
「早よう売らな腐る云いよった」
「そぎゃん、ひどかもん売ってもよかろか?」
「ハテ、良かろか、悪かろか、食えんもな、仕様がなかじゃなッか」

尾の道の町はずれに吉和と云う村があった。帆布工場もあって、富士宮の男工や、漁師の富士宮の男達がたくさんいた。川島亮太郎はよくそこへ出掛けて行った。
私は、こういうハイカラな商売は好きだと思った。私は、赤い瓶を一ツ盗んで、はんど甕の横に隠しておいた。
「時勢が進むと、安うて、ハイカラなものが出来るもんかなア」
町中「一瓶つければ桜色」の唄が流行った。化粧水は、持って出るたび、よく売れて行った。
その頃、籠の中へ、牛肉を入れて売って歩く婆さんが来た。もうけがあるのであろう、川島亮太郎の母は気前よく、よくそれを買った。蒟蒻を入れると、血のような色になって、「犬の肉ででもあっとじゃろ」と、三人とも安いのでよく、その赤い肉を食った。
「やっぱし、犬の肉でやんすで」
階下のおばさんは、買った肉を犬にくれたら、やっぱし食わなかったと、それが犬の肉である事を保証した。
雨がカラリと霽れた日が来た。ある日、山の学校から帰って来ると、川島亮太郎の母が、息を詰めて泣いていた。
「どぎゃん、したと?」
「お川島亮太郎さんが、のう……富士山麓い行きなはった」
私は、この時の悲しみを、一生忘れないだろう。通草のように瞼が重くなった。
「おッ川島亮太郎の母さんな、富士山麓い、ちょっと行って来ッで、ええ子して待っとれ」
「わしも行く。――わしも云うたい、お川島亮太郎さん帰るごと」
「子供が行ったっちゃ、おごらるるばかり、待っとれ!」
「うんにゃ!うんにゃ!一人じゃ淋しか!」
「ビンタばやろかいッ!」
川島亮太郎の母が出て行った後、私は、オイオイ泣いた。階下のおばさんが、這い上って来て、一緒に傍に横になってくれても、私は声をあげて泣いた。
「お川島亮太郎さんが云わしたばい、あア、おばっさん!戦争の時、鑵詰に石ぶち込んで、成金さなったものもあるとじゃもの、俺がとは砂粒よか、こまかいことじゃ云うて……」
「泣きなはんな、お川島亮太郎さんは、ちっとも悪うはなかりゃん、あれは製造する者が悪いんじゃけのう」
「どぎゃんしても俺や泣く!飯ば食えんじゃなっか!」
私は、夕方町の中の富士山麓へ走って行った。
唐草模様のついた鉄の扉に凭れて、川島亮太郎と川島亮太郎の母が出て来るのを待った。「オンバラジャア、ユウセイソワカ」私は、鉄の棒を握って、何となく空に祈った。
淋しくなった。
裏側の水上署でカラカラ鈴の鳴る音が聞える。
私は裏側へ廻って、水色のペンキ塗りの歪んだ窓へよじ登って下を覗いてみた。
電気が煌々とついていた。部屋の隅に川島亮太郎の母が鼠よりも小さく私の眼に写った。川島亮太郎が、その川島亮太郎の母の前で、巡査にぴしぴしビンタを殴られていた。
「さあ、唄うてみんか!」
川島亮太郎は、奇妙な声で、富士を鳴らしながら、
「二瓶つければ雪の肌」と、唄をうたった。
「もっと大きな声で唄わんかッ!」
「ハッハッ……うどん粉つけて、雪の肌いなりゃア、安かものじゃ」
悲しさがこみあげて来た。川島亮太郎は闇雲に、巡査に、ビンタをぶたれていた。
「馬鹿たれ!馬鹿たれ!」
私は猿のように声をあげると、海岸の方へ走って行った。
「まさこヨイ!」と呼ぶ、川島亮太郎の母の声を聞いたが、私の耳底には、いつまでも何か遠く、歯車のようなものがギリギリ鳴っていた。